SNSと距離を置く「つながらない生活」:ゆるく生きるを考える①

当サイトのテーマである「ゆるく生きる」。こだわらず、心地よく、ゆるゆると日々を送ること=ゆるく生きる、だと解釈しておりますが、今回の企画「ゆるく生きるを考える」では、「ゆるく生きる」を真面目に深く考えていこうと思います。

第1回のテーマは「つながらない生活」。スマホの普及した今、常に誰かとつながっているのが当たり前になっています。特にSNSでは、知人だけでなく不特定多数の人とつながることができます。SNS疲れなんて言葉も出てきてますし、ゆるく生きるうえで適度につながりを排除する姿勢は必要だと考えます。

つながらないために、ウィリアム・パワーズ著「つながらない生活」は大きなヒントになりました。本記事は同書の内容を引用しながらコメントしていくスタイルで進行します。

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書籍「つながらない生活」について


サブタイトルは「『ネット世間』との距離のとり方」。ワシントン・ポスト紙の元スタッフライターであるウィリアム・パワーズ氏のデビュー作です。日本語版の翻訳者は有賀裕子氏。ウィリアム氏による論説でありながら、最初と最後に「巨大な部屋」と題された寓話を含む構成になっており、内容に入り込みやすく易しい印象になっています。

寓話「巨大な部屋」は、SNS社会の現代を「常に多くの人と暮らしているような、1人の時間がない巨大な部屋」に例えています。巨大な部屋にいる主人公は自身の置かれている状況に違和感を感じて脱出を試みる、という話です。

慌ただしいデジタルライフ

ツール類は倍々ゲームでとめどなく増殖している。それとともに、わたしたちはいっそう忙しくなっていく。仕事日の慌ただしさが少しずつ増していくのだ。モバイル機器を携えていれば、移動の際にもデジタル世界のすべてーそしてあらゆる人々ーがついてくる。忙しくなるのはプライベートも同じだ。無数のつながりに対応しなくてはならないため、「余暇」とは名ばかりになってしまった。

ここでいうツール類には、PCやスマホといったハードのほか、メール、SNSといったソフトの類も含まれるでしょう。同書が日本で出版されたのは2012年ですが、当時以上に「つながること」を特徴にするWebサービスも増えているはずです。

つながるためのツールがビジネスシーンを便利にしたのは間違いないと思います。ただ、電話対応やメール対応を迫られることで、慌ただしさも増えました。社用の携帯を持たされることで、常に会社の管理下にあるような気もします。

仕事での利用はともかく、ビジネスでない用途では「常につながれる」メリットを大いに享受できるのではないでしょうか。ウィリアム氏は「そうでもない」といいます。

学生の社会においても、LINEの既読スルーは悪みたいな風潮や、ツイッターやインスタグラムを見ないとリアルの会話が成立しない状況があるみたいですから、「つながる義務」を迫られている点で社会人と一緒ですよね。

社会人の場合は、仕事でも仕事関係の人とつながり、プライベートでも多数の知り合いとつながらなければならない。仲のいい友人ならいいとして、ちょっとした知り合いのツイートに「いいね」を押したりしなければならない。常に誰かとつながっているので、余暇なんて名ばかり、1人でゆっくり休める時間なんてない、といっているのです。

ただ、上記の引用文の直後にはこんな文が出てきます。

これらすべてをツール類のせいにするのは安直だろう。安直すぎる。ツール類は夢のような便利さをもたらし、わたしたちの生活を数えきれないほどの方法で豊かにしてくれる。(中略)わたしたちがつながりから解放されずにいるのは、自分たちが絶えずつながりを求めているからだ。

僕も「PCやスマホは必要ない」という極論をいうつもりはありません。今こうしてネット上にアップする記事をPCで書いているわけですから、ツールやインターネットのもたらした利益を存分に享受してますし、僕にとってツールは必要不可欠です。

そもそも必要とされなければ存在しないはずです。発明した人も、人々の暮らしを豊かにするために開発したことでしょう。事実、スマホやSNSによって昔ならば夢のような暮らしが実現しています。

常時ネット接続する小型端末「スマートフォン」、スマホ上で知り合いや知らない人とつながれる「SNS」の普及は我々の暮らしを大きく変えました。いつでもどこでも、豊富な最新情報を仕入れられるし、思ったことをリアルタイムに発信できる。絶え間なくコミュニケーションをとれて、退屈な時間をなくすことができる。

人間はコミュニケーションを必要とする生き物です。根本的な欲求であるコミュニケーションを満たしてくれるSNSの存在は、当然のように多くの人に受け入られました。でも、副作用として一部の人に「つながり疲れ」の症状が現れたようです。

対処するためには個々人が意識を変えなければなりません。ツールの必要性も認めたうえで、「適切な距離」を置くことが重要だと思います。

デジタルライフが落ち着かない2つの理由

そもそも「つながり疲れ」はなぜ起こるのでしょうか。疑問に対する回答のひとつであり、僕も共感できた部分を引用したいと思います。

デジタルライフの無限性には心が躍るが、落ち着かないのもたしかである。二つの重要な点で落ち着きが得られないのだ。一つには、用事が次々と押し寄せてきてきりきり舞しているうちに、自分の時間や注意を、いくらでも細切れにできるモノのように扱う習性が身についてしまう。スクリーン上では、いくつもの要件を同時に詰め込みやすいから、時間や注意を切り売りしてしまうのだ。果ては発想パターンまで変化して緊張のリズムが生まれ、新たな用事を見つけ出さずにはいられないのである。

「無限性」という言葉は、情報で溢れ、次から次へと新しいものが出てくる世界観を端的に捉えていると思います。仕事における新しいツールの活用や、無限の海を行くネットサーフィンは確かに心躍るものがあります。

僕も「無限性」に魅せられ、無意味にスマホを手に取りブラウザを開いてしまうことが多いです。適当な単語で調べただけで様々な情報が得られます。検索結果からサイトを開く際には、知らない街に訪れるようなワクワク感が少しあります。

無限性の解釈はこんな感じであっていますかね(笑)個人的に気に入ったので、主旨でないにも関わらず長く述べてしまいました。

さて、そんな無限性をもつデジタルライフですが「落ち着かない」こともあります。ウィリアム氏は1つ目の理由に「デジタル世界の考え方が個人の考え方に情報を及ぼす」点を挙げています。

ウィリアム氏のいっているところと合致するかはわかりませんが、こんな例えはどうでしょう。僕はPC作業、例えば今みたいに記事を書いている時、YouTubeで作業用BGMを聴いていたりします。聴いたことのない曲が流れて「これいいな」と思ったりすると、ネットにつながっているのですぐに調べられるわけです。そんな調べ物がはじまると、そのアーティストの他の曲や生い立ちを調べ始めたりして、記事を書くという作業は忘れているわけです。作業用BGM、本末転倒です。

他にも、書いている記事に必要な調べ物をしていると、情報のあったサイトの他の記事が気になったりしてしまいます。ネットのもつ「無限性」の罠にかかっていますね。

一方、学生時代の調べ学習を思い出してみます。小学校や中学校で行う、図書館にいって調べ物をするやつです。本というメディアは、無限性のあるネットとは対照的に有限性のメディアです。印刷物ですから書いてある情報がすべて。脱線することなく書いてある情報を参考に集中して課題に取り組めます。

PC作業だと、どうしてもマルチタスクになりがちです。作業中に新着メールが入ったり、最近はTwitterのタイムラインをスクリーン上のいつでも見えるところに配置する人もいたりしますからね。

結果、デジタルツールに触れていない時でさえも「何かほかにすることはないか」と考えてしまう、とウィリアム氏はいっているのだと思います。この主張に関しては、わからない部分も多いです。(解釈があってるかも不安)「デジタルライフに慣れ親しんでから、常にそわそわする」という人は多いのでしょうか。

個々人の性格上の特徴による部分もあると思うのです。でも、僕は小学生からPC、中学生から携帯に触れはじめた世代なので、デジタルツールがない時代というものをしっかりと経験していません。いわゆるデジタルネイティブ世代にはわからない感覚なんですかね。

ただ、デジタルライフが落ち着かないという意見には合意です。ウィリアム氏の2つ目の理由をみてみましょう。

落ち着きのなさの二つめは、哲学的なものである。つながり度合いが増していくにつれて、わたしたちの考えは外界へ外界へ向いて行く。自分や身のまわりといった「すぐそば」よりも、賑やかな「離れた世界」で何が起きているかに、しきりに気を取られる。

このことで、自分の接する世界の範囲がとてつもなく広くなるといいます。そして、その世界に関わる義務感を感じてしまう。

加えて、

外界への意識は、ただの義務感よりももっと強烈なもの、つまり自己肯定を伴う。

としています。つまり、デジタル媒体が個人の自己承認欲求を満たす役割を担うのです。

これらはSNSの話にするとわかりやすいでしょう。SNS上では友達の友達や著名人とでさえもつながれる、そのため輪を拡げ、そこにコミットする義務感が生じる。小さい頃の「友達100人できるかな」という歌を覚えていますが、僕らは「友達が多い=正義」のような概念を小さいうちから埋め込まれている気がします。その概念がSNS界では顕著。まるでFacebookの友達数やTwitterのフォロワー数は戦闘力のようです。

多種多様な多くの人々から色々な情報を受け取るとともに、自ら発信する際は「自分自身」を無限の世界に送り込むことになります。送り込んだ自分自身を世界に受け入れてもらうことで、個人は社会的な存在の証を手に入れることができます。

こういった意識は、「かかさずSNSをチェックし知り合いの発信に対し何らかの反応をする」「多くの人に共感を得られそうな事柄を積極的に発信していく」といった行動に表れます。

このような行動が「落ち着かない」理由でしょう。

デジタルライフへのアンチテーゼ

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デジタルライフは慌ただしく、落ち着かない。この指摘は別に目新しいものではありません。多くの人が気付いているはずです。その証拠に座禅やヨガのブームがあります。同書でも以下のように述べています。

ヨガなど暝想の人気が沸騰しているのも、束の間とはいえデジタル世界の慌ただしさを忘れるのに役立つからだ。スローフード、スローな子育て、スローな旅……。こうしたスローライフ志向に見られる「何もかも急ぎすぎだ」というメッセージにも、同じ意識が垣間見える。

ヨガは自己の内面世界に焦点を当てたもの。上述したように、意識を外へ外へと向けるデジタルライフの在り方とは真逆です。近頃はダイエットとしても注目されているみたいですが、本来はポーズよりも呼吸に重点を置いた精神的な所業。いい「デジタルデトックス」になることでしょう。

スローライフ志向というように、利便性を追求したデジタルに疲れたからゆっくりしようという流れも大きくなっています。「ゆるく生きる」をテーマにしたThird.jpもこの流れを推進する要素になりたいと思っていますし、この点は本記事とも直接関わってきますね。

さらばSNS疲れ。ネット世間とゆるくつながる

ここまで述べてきたように、ネット世間いわゆるSNSが現代人の慌ただしい毎日の原因のひとつです。SNSそのものというより、それらとの関わり方というべきでしょうか。適切な距離を置く必要があるとウィリアム氏の書籍の内容も含めて思います。

適切な距離をどうとるべきか。同書では歴史主義に基づき、過去の偉人7人から学ぶという手法をとっています。登場するのは、プラトン、セネカ、グーテンベルク、ハムレット、フランクリン、ソロー、マクルーハンの7賢人。各人に関する歴史上の記録をもとに、ウィリアム氏が「適度につながらない知恵」を教えてくれます。

本記事で引用した所は、すべて序章と1章。これらは導入部で7賢人から学ぶ2章が同書のメインであり、オリジナリティのある面白い箇所だと思います。僕も歴史好きなので「こんな人だったんだ」と感心しつつ、有益な知恵を得られた気がします。気になった方はぜひ読んでみてください。

書籍「つながらない生活」からは離れ、だらだらと書いてきた記事のまとめに入ります。ゆるく生きるということは、固執しないことだと思います。そう考えると、スマホやネットへの依存はゆるく生きるうえで妨げになるはず。

もちろん、SNSをやっていれば役立つ内容や面白い内容もありますが、不快な情報が意図せずに入ってくることもあります。それらはストレスになります。

つながるのは義務でなく権利。不快な情報の発信源はなるべく排除するべきです。ネット世間にリアルのしがらみ、仕方ない人付き合いの概念を持って行くべきではありません。

情報を真に受けない精神力も大事。自慢や批判といった一部の人を不快にさせるような発信も受け流す能力、メディアリテラシーならぬSNSリテラシーとも呼びましょうか、これは必要です。

自分が発信する場合は、あまりネット世間に期待せずマイペースに発信していく。「いいね」されなくてもいいんです。

また、時には意識的にネット世間とつながらない機会を設ける。ヨガでも読書でもスポーツでもいいと思います。

こうした「適度につながらない勇気」が、マイペースで心地よい、ゆるい生き方につながるでしょう。

今回の記事はここまで。次回は「仕事」をテーマに書きたいと考えています。 2回目は「田園回帰」をテーマに書きました。

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(了)

Minto
ゆるく生きたい20代男。編プロからライター活動を開始し、旅やITなど幅広い分野で執筆中。
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